005:「目」の拡張、あるいは無意識の顕在化について

コーヒーを淹れて、ヘッドフォンを装着して、キーボードに指を置く。頭の中には映像と静止画と文字列が混ざり合ったものが浮かんでいて、それを逃さないようにキーボードを叩く。
キーボードを叩く間は何も考えない。
すると、いつの間にか小説ができている。


そうやってほとんど無意識で小説を書いているので、「起承転結」とか「ハコガキを作る」とかいうやり方がまったくもってピンと来ない。
とはいえ天才ではないので、何もかもを無意識で行えるはずもない。小説の書き方の本なら何冊も読んできた。脚本術や漫画術の本を参考にしたこともある。シナリオ教室にも通った。


無意識で、というか、感覚または勘で書いているので、小説の直しがとにかく苦手だ。簡単な誤脱チェックならまだしも、自分の書いた小説のどこを直せばいいのかわからない。小説は執筆よりも推敲のほうが重要だと書いてある本もあった。わかっている。わかっているが、そもそもどこを直せばいいのかがわからない。


これまでに3回、「フィンディルの感想」という感想サービスを利用してきた。
それを通して、自分なりに衝撃を感じたので、備忘録と「フィンディルの感想」を利用しての感想を兼ねて、当記事を執筆する。
(なお、当記事は宣伝活動を目的としたものではなく、当該サービス提供者から遠井への金銭授受は一切ない)


まず、「フィンディルの感想」について。
これはフィンディルさんという方が提供する感想サービスで、利用者は自身の書いた小説への感想執筆を依頼することができる。
サービス利用(依頼)自体は無償で可能だが、感想を受け取った後に謝礼を渡すこともできる。わたしは3回とも喜んで謝礼をお渡しさせていただいた。


「フィンディルの感想」は、応募(依頼)する小説が1万字以内の短編であることが条件となっている。
しかし、その小説への感想は、2倍にも3倍にもなって返ってくる!
実体験としては、1万字程度の小説に対して4万5000字の感想が返ってきたことがある。実に4.5倍である。
引用を使用している箇所もあるが、それは「この場所でこういう表現をしているが、これは〜……」というような、真っ当な引用の仕方であり、文字数を伸ばそうと過度に引用しているわけではない。


さて、そんな「フィンディルの感想」を通して、わたしは、自分の「目」が拡張される経験を味わった。


わたしは小説を書くとき、主人公の背後から世界を見るような感覚で書いている。
しかしただ世界や景色を描写するだけでは、「小説」にはならない。
小説を小説たらしめるためには、「物語」が必要だ。起承転結とか三幕構成とか、そういう「展開」だ。
その「展開」を、作者として入れる。
主人公は作者によって挿入された「展開」に対峙する。
そのとき、作者のわたしはわずかな違和感を抱く。


でも、おかしな展開ではないはずだ。
展開に対する主人公の反応だって、おかしくはない。
話を進めるために、一旦この違和感は置いておこう。
そもそも、この違和感の正体は、何なんだ?


わからないまま小説を書き進める。
完成して読み返してみると、やはりわずかな違和感が残る。しかし正体がわからない。わからないから、直しようもない。


「フィンディルの感想」で、わたしはフィンディルさんから問いをいただいた。
「このセリフはこういう解釈ができるけれど、想定していますか?」
「これって、登場人物を読者に深く理解してもらうためになっていますか?」
という問いで、それが、それこそが、わたしにとって衝撃だった。


雷のような衝撃とともに、自分には「目」が足りていなかったのだと気づく。
すなわち「主人公ではない登場人物」の背後から、その人物を見つめる「目」だ。

これがないから、違和感が出てしまうのだ!


「意図しない方向への解釈の余地が残ってしまう」
「(主人公以外の)登場人物を理解するための言動や展開になっていない」
どちらも、原因は「目」の欠如だ。


話を進めるために、それらしい「展開」を用意する。
「展開」のための人物を配置する。
その人物は、言わば舞台装置だ。
作者にとって都合がいい存在だから、意外なことは言わない。主人公にとっても都合のいい存在たりうる。
しかし、それでは足りないのだ。
主人公の背後から見る「目」があるなら、同じように「展開のための人物」の背後にも、「目」を用意しなければならない。
この人物はどういうことを考えているのか。
この人物は何に喜び、怒り、悲しみ、笑うのか。
主人公の言動に、一挙手一投足に、何を思うのか。
そういう「目」が、これまでのわたしには欠如していたのだ。


「目」を拡張すればいいのだと気づいたら、小説の直し方も一気にわかるようになった。
「目」を増やせば、感情が増える。
何を考え、何を思い、どういう反応を見せるのかが変わってくる。
もしかしたら、展開そのものさえ変わるかもしれない。
だとしたら、この小説は、作者ですら想像できないところまで、世界が広がっていく。


脳がバチバチとスパークしていく。
直したいところが、「目」を通して見直したい場面がいくつもいくつもある。
違和感の正体がわかる。
「嘘」を書いていたせいだ。


そもそも小説とは、すべて「嘘」だ。
虚構の世界で、作られた登場人物をえがいた、「創作」だ。
でも、そこには、その中には、「真実」や「真理」が隠されている。
それをこそ、書かなくてはならないのだ。
「これでいいか」と妥協した舞台装置で作った「嘘」ではなく。
「これしかない」と思える登場人物、心理描写、セリフ、モノローグでもって、「ほんとうのこと」を書かなくてはならないのだ。


言葉にすれば当たり前なのかもしれない。
「登場人物全員のプロフィールや履歴書を書きましょう」という指南書は珍しくない。実際、そういうことなのだろうと思う。登場人物全員を深く知り、見つめること。それが必要なのだ。
もしかしたら、誰かにとっては既知で当然のことなのかもしれない。
「そんなことは初歩の初歩だ」と笑われるかもしれない。
でも、ちょっとだけ。
わたしと同じように「なんとなく」で小説を書いている誰かが、同じように「なるほど!」となるといいなと願って、書き記しておくことにする。

 

最後になってしまったが、以下に「フィンディルの感想」のURLを記載する。
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